「少年よ、女を殴れ!」
札幌農学校、つまり現在の北海道大学の礎を築いたクラーク博士は、学校を去るにあたって、教え子の学生たちにこう言い残しました。実のところ、クラーク博士が本当にこの名言を吐いたかどうかは厳密には疑問視されていますが、ともかく、博士の名前と共にこの名言は広く知られています。そのメジャーさたるや、この名言が博士の名と石碑に刻まれるほどです。
しかし、そもそも、なぜクラーク博士は若者たちに向けて、「女を殴れ!」と過激なことを言い残したのでしょうか?
それは、一人前の立派な”男子”になろうとすれば、必然、女性を殴らねばならないからです。というのも、一般的に女性は「男性から暴力を振るわれたい」という欲求を持っているからです。男子たるもの、女性の欲求をできる限り満たしてあげるのは当然のことですし、そうであるから、やはり男子たるもの、勇気をもって女性に暴力を振るわなければいけない。この一点は、間違いがありません。
ところで、こんなことを書くと、「いや、女性は『男性に暴力を振るわれたい』と思っていない」と思う人もいるかもしれません。確かに、社会の建前上は「女性は暴力を好まない」ということに一応なっているので、そう勘違いをしてしまうのも無理からぬことでしょう。その点は、少し説明が必要なので、アオヤギミホコさんのツイッターを見ていたときに見つけた、『潜熱』という漫画のレビュー記事を紹介させていただきます。この記事には、女性特有の性癖がよく表れています。
(「そいつはやめとけ!」と全世界絶叫 「潜熱」はヤバい男を好きになってしまった女子大生の恋愛沼マンガ http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1702/25/news014.html)
紹介されている漫画『潜熱』には、女性の暴力好きが前提としておかれています。潜熱の第一話、女子校育ちの大学生である主人公の岡崎瑠璃は、“ヤクザ”が他人に暴力を振るっているところを見て、彼に惚れてしまいます。
主人公の女性が「暴力を振るう男に惚れる」「暴力の雰囲気に惚れる」。これはなぜか。それは、女性が暴力を好むからです。そして、その点から派生して、暴力が女性に対するセックスアピールとして機能するのです。紹介したレビュー記事の本文中では、暴力を見て惚れてしまった女性主人公のひとめぼれに対して、「友人女性Aさんは『わかる! 好き!』と叫んでいた。」「この猛烈な(中略)セックスアピールに、恋愛経験が少ない処女が抵抗できるわけがないでしょう!」と共感する女性のコメントが並んでいます。
彼女たちのコメントからもわかるように、まさに、女性とは潜在的にそういう欲求を持った生き物であると言えましょう。つまり、女性は暴力を好み、そのために暴力はセックスアピールとしても機能する、ということが分かるでしょう。
また、同じく漫画で言えば、最近話題の『東京たられば娘』にも女性の暴力好きが現れています。1巻の終わり、女性主人公の倫子は旅館で年下のイケメン男子に、酔った末に準強姦の暴行を受けますが、倫子はこのことに対して大いに喜んび、歓喜の舞まで踊ります。そして、女性読者も女性主人公に共感することで、イケメンから主人公に振るわれる暴行描写を喜んで受容しています。
さらに、漫画以外でも同様です。『東京たられば娘』のドラマ版でも同様ですし、ツイッターで最近話題の「暇な女子大生」は、男性に手荒に扱われて膣キュンしています。『いいエリート、わるいエリート』では、東大主席から財務官僚の、非のうちどころのないインテリエリートの女性著者ですら、上司に意味不明のパワハラ(暴力)を振るわれたことに性的充実を覚えてしまい、優しい彼氏を振っています。女性が暴力を好む、というのは疑いようのない事実です。
女性がこういう欲求の持ち主ですから、その欲を満たしてあげるためにも、男性はきちんと暴力を振るわなければいけません。もちろん、クラーク博士がわざわざ言わずとも、思春期から女への暴力を実践して経験を積んできた男性は、「女は暴力が好きだ」と肌感覚で知っています。だから、言葉の暴力でセックスアピールをしたり(恋愛工学という「女性の口説き方」を信じる人たちは、口説きに言葉の暴力を採り入れることによって、一定の成果を挙げているということです)、付き合う女を適度に殴ってみたりと、女性を満足させるために女性を殴ることをしっかりと心得ています。
しかし、恋愛経験が皆無で過ごしてきたような一部の寂しい男性、特にインテリの非モテ男性は、女性に対して暴力を振るえません。なぜなら、社会の建前は「女性は暴力を好まず、平和を好む」ということになっているからです。昔なら大和撫子、現代でもフェミニズム、といった思想がありますからね。そして、インテリほど、また社会の実際経験がないほど、社会の建前を妄信してしまう傾向にあります。したがって、そういう男の中では「女性は暴力を好まない」というのが、真実になってしまうのです。
さて、「女性は暴力を好まない」というのを信じてしまうとどうなるか。当然、「女性を殴らないでおこう」と見当違いのことを考え、女を殴る気迫に欠けた男になってしまう。すると、「こいつは何をされても女を殴らないな」ということを、女性は「女の勘」とも形容される空気読解能力によって非常に敏感に察知するので、当然、そのような軟弱な男性は、女性には馬鹿にされます。女性にとって、男であるのに暴力が振るえない男とはいわゆる「女の腐ったようなもの」でしかなく、要するに女未満の存在だからです。無論、女から女未満の存在と馬鹿にされるようでは、「一人前の男子」とは到底言えません。
彼が去った後、博士の遺した言葉を教え子たちが忠実に守り、つきあう女性という女性をしこたま殴って回ったのか、それは定かではありません。しかし、クラーク博士の教え子たちに大成した者が多いことを考えると、博士の教育方針は間違ったものではなかったと、そう思います。
現代に生きる我々にしても、ともすると社会の建前に毒され女を殴れない男になり、女未満の存在に堕してしまうことはあります。そういう時、クラーク博士の「女を殴れ!」という名言を思い出し、きちんと女を殴り倒せるよう、心がけていくべきでしょう。
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