2016年12月25日

「丸山眞男」をぶっ殺したい 希望は、テロ。


 平和とはいったい、なんなのだろう?
 最近、そんなことを考えることが多くなった。

 夜勤明けのクリスマスの朝、家に帰って寝る前にフェイスブックを見ると、私の元同級生が父親として、妻と子どもを連れて、仲良さそうにイブに撮った写真をアップしている。ある年齢を越えると怒濤の結婚ラッシュが始まるようで、かつての友人たちも次々に結婚を決めている。





 一方、私はといえば、結婚どころか親元に寄生して、自分一人の身ですら養えない状況を、かれこれ十数年も余儀なくされている。私にとって、自分がフリーターであるという現状は、耐えがたい屈辱である。ニュースを見ると「非正規が少子化の原因だ」「日本の労働生産性を下げているのはフリーターだ」などと直接的な批判を向けられることがある。「子どもの安全・安心のために街頭にカメラを設置して不審者を監視する」とアナウンサーが読み上げるのを聞いて、「ああ、不審者ってのは、平日の昼間に外をうろついている、俺みたいなオッサンのことか」と打ちのめされることもある。

 しかし、世間は平和だ。
 海外で起きたテロ事件のニュースが流れることはあっても、ほとんどの人は「明日、テロに巻き込まれるかもしれない」などとは考えていないし、会社員のほとんどが「明日、リストラされるかもしれない」とおびえているわけでもない。平和という言葉の意味は「穏やかで変わりがないこと」、すなわち「今現在の生活がまったく変わらずに続いていくこと」だそうで、多くの人が今日と明日で何ひとつ変わらない生活を続けられれば、それは「平和な社会」ということになる。

 ならば、私から見た「平和な社会」というのはロクなものじゃない。
 夜遅くにバイト先に行って、それから8時間ロクな休憩もとらずに働いて、明け方に家に帰ってきて、スマホでネットサーフィンして、昼頃に寝て、夕方頃目覚めて、スマホを見て、またバイト先に行く。この繰り返し。

 月給は10万円強。東海地方の実家で暮らしているので生活はなんとかなる。だが、本当は実家などで暮らしたくない。両親とはソリが合わないし、車がないとまともに生活できないような土地柄も嫌いだ。ここにいると、まるで軟禁されているような気分になってくる。できるなら東京の安いアパートでも借りて一人暮らしをしたい。しかし、今の経済状況ではかなわない。大の大人が、自分の生活する場所すら自分で決められない。しかも、この情けない状況すらいつまで続くか分からない。年老いた父親が働けなくなれば、生活の保障はないのだ。

 「正社員になって働けばいいではないか」と、世間は言うが、その足がかりはいったいどこにあるのか。大学を卒業したらそのまま正社員になることが「真っ当な人の道」であるかのように言われる現代社会では、まともな就職先は新卒のエントリーシートしか受け付けてくれない。ハローワークの求人は派遣の工員や、使い捨ての営業職、介護職などの安定した職業とはほど遠いものばかりだ。安倍政権は「再チャレンジ」などと言うが、我々が欲しいのは安定した職であって、チャレンジなどというギャンブルの機会ではない。

 そして何よりもキツイのは、そうした私たちの苦境を、世間がまったく理解してくれないことだ。「仕事が大変」という愚痴にはあっさりと首を縦に振る世間が、「マトモな仕事につけなくて大変だ」という愚痴には「それは努力が足りないからだ」と嘲笑を浴びせる。何をしていいか分からないのに、何かをしなければならないというプレッシャーばかり与えられるが、もがいたからといって事態が好転する可能性は低い。そんな状況で希望を持って生きられる人間などいない。

 まともな職を得られなかった私たち非正規労働者の多くは、これからも屈辱を味わいながら生きていくことになるだろう。一方、安定した企業の正社員や公務員の多くは、我々を見下し嘲笑しながら、これからもぬくぬくと生きていくのだろう。なるほど、これが「平和な社会」か、と嫌みのひとつも言いたくなってくる。

・NHKスペシャル「私たちのこれから #長時間労働 」が見過ごしたもの


 2016年12月に放送された、NHKスペシャル「私たちのこれから
#長時間労働 」(https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20161224)を見ながら、私はなんとなく違和感を覚えていた。

 番組では、長時間労働に苦しむ人たちが、長時間労働の被害者として紹介されていた。東大卒で電通に入社したものの長時間労働に耐えかねて自殺してしまった女性。上から労働時間の削減を命じられ、その穴埋めをするためにサービス残業をせざるを得なかった元大手企業の社員。残業続きのせいで妻や子供への家族サービスができないIT企業社員。

 過労死するまで働くことを強制される状態が正しい状態ではないことは明らかだ。普通の人が普通に働ける社会を構築するべきだ。などと、ごく当たり前でなんの面白みもない感想を頭の中で反芻していると、頭のなかにモヤモヤッとしたものがわき上がってきて、どうも釈然としない。何かがおかしい――その違和感を突き詰めていくと、番組は「サービス残業をさせられた大手企業社員」「家に帰れば妻と子供がいるIT企業社員」といった正規労働者と、「そもそも正社員として雇用されていない人々」「フリーターである私」という非正規労働者の間にある大きな差違を、見過ごしてしまっていることに気づく。

 前者が家庭を手に入れ、社会的にも自立し、人間としての尊厳を十分に得た人たちである一方、後者はそれすらできないような人たちである。前者ばかりを弱者として救済しようとする見方には、私はどうも納得がいかない。

 特に、残業続きだったIT企業の正社員が、社内改革によって早めに帰ることができるようになり育児に参加するイクメンになれた、という事例が大きく紹介されていたことが気にかかる。結婚して家庭を持つことや100万円の貯金など夢のまた夢でしかない我々フリーターが存在することをさしおいて、大企業の正社員がイクメンになることがそれほど重要なのか?

 長時間労働の是正を主張する人たちは、家族を養っている正社員が家族サービスが行えるようになる素晴らしさを称える一方で、妻も子どもも持つ見込みがない我々のことはそもそも眼中にない。我々の方が弱者であるはずなのに、彼らが取扱いには大きな不平等が存在するように思える。

 どうしてこのような不平等が許容されるのか。それは彼らの論理が「平和な社会の実現」に根ざしているからだと、私は考える。平和な安定した社会を達成されたと彼らが感じるためには、彼らと同じような人間が幸福になるのが一番分かりやすい。だから同じ弱者であっても、自分たちのように配偶者も子供もいる正社員の人間には、豊かな生活を保障しようとし、自分たちの想像の及ばない非正規の若者はどうなっても構わないという考え方に無意識のうちに至っているのではないか。

 不況直後、「ワークシェアリング」などという言葉はあったが、いまだにそれが達成される兆しがないのは、誰も正規の椅子を譲らないし、譲らせようともしないからだ。非正規に正社員の地位を与えようとすれば、今の正社員の生活レベルを下げなければならないのだが、それは非常な困難を伴う。持ち家で仲良く暮らしている家族に、「家を売ってください。離婚してください」とは言えないだろう。一方で最初から独身でアパート暮らしの非正規に、結婚して家を買えるだけの賃金を与えないことは非常に簡単だし、良心もさほど痛まない。だから社会は、それを許容する。


・テロが起きるようになれば、社会は流動化する


 平和な社会を目指すという、一見きわめて穏当で良識的なスローガンは、その実、社会の歪みを非正規労働者に押しつけ、一部の人間にのみ都合のいい社会の達成を目指しているように思えてならない。このようなどうしようもない不平等感が鬱積した結果、非正規の弱者、若者たちが向かう先のひとつが、「右傾化」であると見ている。

 昔、姜尚中氏がこのようなことを述べていた。
 「若者たちは現状に対して何らかの不満があり、被害者意識をもっている。しかし、それを社会に対してどう表現していったらいいのかわからない。社会運動をやろうとは思わないし、やり方も知らない。そんななかで、一部メディアが扇情的に書き立てている対北朝鮮、対韓国、対中国といったテーマが、彼らの集結軸として機能してしまっているように思う」

 このような非正規の若者に対する見方は、左右の別なく多くの知識人の共通した現状理解であるように思う。しかし、彼らはけっして彼らが思い描くような弱々しい存在ではない。「社会運動をやろうとは思わないし、やり方も知らない」と言うが、実際にはその彼らに声に押される形で、社会全体が右傾化の傾向を見せている。

 ネット右翼の社会運動は、彼らのブログが人気を集めて検索サイトのトップに表示されたり、マスコミに「ネットにはこのような声がある」と紹介されたりすることによって、インクが混じるとほんのわずかだけ色が変わる水のように、それとなく社会に浸透している。それは彼らのやり方が有効な社会運動として機能しているということだろう。知識人たちは素直に認めなければならない。

 また、彼らが不満や被害者意識を持っているというなら、なぜ左傾勢力は彼らに手を差し伸べることができなかったのか。一時期、左傾勢力が政権を獲ったことがあったが、彼らは緊縮財政を志向していたずらに雇用情勢を悪化させるだけで、何も問題を解決しなかった。だから非正規労働者たちは安倍政権に「アベノミクスを成功させて、景気を良くしてくれ!」と期待してしまうのだ。米国でも、トランプ次期大統領が「俺が雇用を海外から取り戻し、アメリカ経済を復活させる!」と叫んで地方の非正規労働者たちの支持を集め、大統領選に勝利したことは記憶に新しい。

 確かに、右傾化する若者たちの行動と、彼らが得る利益は反しているように見える。たとえば安倍首相は「外国人を積極的に受け入れ、総合的に在留資格を見直す」としており、外国人労働者の大幅な受け入れを推進している。外国人の「毎年20万人受け入れ」が実現すれば、移民と競合する非正規労働者の労働環境が大幅に悪化するのは間違いない。それでも若者たちは、安倍政権に好意的だ。アベノミクスと安倍政権を支持することによって、結果的にこの移民政策を下支えしている。

 そこで当然、左傾勢力から「それは本当に、当の非正規労働者たちを幸せにするのだろうか? 安直な安倍政権支持は、非正規労働者自身の首を絞めているだけなのではないのか?」という疑問が提示されることとなる。

 だが私は、若者たちの右傾化はけっして不可解なことではないと思う。極めて単純な話、日本が移民国家となり、非正規で使い潰されることに耐えかねた移民がテロを起こし、たくさんの人間が死ぬようになれば、日本はきっと変わる。多くの非正規労働者は、それを望んでいるように思う。

・国民全員がテロにおびえる平等を


 佐藤俊樹氏は『不平等社会日本 さよなら総中流』の中で、ホワイトカラーとブルーカラーの世代間移動について、戦後の高度経済成長で一時的に開放性が大きくなったものの、団塊世代の時点ですでに開放性は戦前のレベルにまで小さくなったと考察している。すなわち、社会の不安定さが流動性を押し広げ、社会が安定するにつれて流動性は失われていった。

 それでも、経済が右肩上がりの時代は問題がなかった。流動性がなくとも、経済さえ右肩上がりであれば、給料は増え続けたのだ。給料が上がるということを通して、すべての労働者が報われていた。

 三種の神器(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)や3C(カラーテレビ、クーラー、自家用車)、それに持ち家や結婚・出産などの家族関係の構築、おまけに憧れのハワイ航路もつけておこう。こうした「庶民の夢」と呼ばれたものを、この時代の人たちは手にすることができたのだ。格差は確かに存在したものの、それは「アイツは3ナンバーに乗っているのに、俺は普通車だ」というレベルのものであり、現在のような、人間が生活するうえで致命的な格差ではなかった。

 私たちだって右肩上がりの時代ならば「今はフリーターでも、いつか正社員になって妻や子どもを養えるようになる」という夢ぐらいは持てたのかもしれない。だが、給料が増えず、平和なままの流動性なき今の日本では、我々はいつまでたっても貧困から抜け出すことはできない。

 我々が低賃金労働者として社会に放り出されてから、もう10年以上たった。それなのに社会は我々に何も救いの手を差し出さないどころか、少子化の原因だの、自己責任だのと、罵倒を続けている。平和が続けばこのような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれない何か――。その可能性のひとつが、テロである。

 識者たちは若者の右傾化を、「大いなるものと結びつきたい欲求の表れ」であり、現実逃避の表れであると結論づける。しかし、私たちが欲しているのは、そのような非現実的なものではない。私のような経済弱者が、窮状から脱し、社会的な地位を得て、家族を養い、一人前の人間としての尊厳を得られる可能性のある社会を求めているのだ。それはとても現実的な、そして人間として当然の要求だろう。

 そのために、テロという手段を用いなければならないのは、非常に残念なことではあるが、そうした手段を望まなければならないほどに、社会の格差は大きく、かつ揺るぎないものになっているのだ。

 テロは悲惨だ。
 しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」我々からすれば、テロによる死は悲惨でも何でもなく、むしろ生からの救済となる。

 もちろん、テロが起きる社会になれば、死と隣り合わせの生活になるものの、それは国民のほぼすべてが同様である。国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルとしてのテロが頻発する状況と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。

 持つ者は戦争によってそれを失うことにおびえを抱くが、持たざる者はテロによって鬱憤を晴らすことを望む。持つ者と持たざる者がハッキリと分かれ、そこに流動性が存在しない格差社会においては、もはやテロはタブーではない。それどころか、「平和な社会」というスローガンこそが、我々を一生貧困の中に押しとどめる「持つ者」の傲慢であると受け止められるのである。

 苅部直氏の『丸山眞男――リベラリストの肖像』に興味深い記述がある。1944年3月、当時30歳の丸山眞男に召集令状が届く。かつて思想犯としての逮捕歴があった丸山は、陸軍二等兵として平壌へと送られた。そこで丸山は中学にも進んでいないであろう一等兵に執拗にイジメ抜かれたのだという。

 理不尽な暴力は丸山にとってみれば、確かに不幸なことではあっただろう。しかし、それとは逆にその中学にも進んでいない一等兵が、東大卒のエリートに理不尽な暴力を振るうことができる機会など、平和な社会ではありえなかった。

 丸山は「陸軍は海軍に比べ『擬似デモクラティック』だった」として、兵士の階級のみが序列を決めていたと述べているが、それは我々が暮らしている現状も同様ではないか。
「正規か非正規か」が人間の序列を決める擬似デモクラティックな社会の中で、一方的にイジメ抜かれる我々にとってのテロとは、現状をひっくり返して、「丸山眞男」をぶっ殺せるかもしれないという、まさに希望の光なのだ。

 しかし、それでも、と思う。
 それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らがテロで死ぬさまを見たくはない。だからこうして訴えている。私にテロを起こさせないでほしいと。

 しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員がテロにおびえる平等」を望み、それを選択することに躊躇しないだろう。







(元ネタ→赤木智弘『「丸山眞男」をひっぱたきたい 希望は、戦争。』)
相模原45人殺傷事件、秋葉原通り魔事件





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